山之上の土地は、一の宮片埜神社の氏地であったが、弘安元年同社の社務職の間にいささか
不和の事が起こり、祭祀も怠りがちとなったので、社務職の一人でこの土地に居住していた
田中修理亮芳秀は之を遺憾として、その所有にかかる田中山(今の宮山)を神地として、
新たに宮詞を造建して、同2年9月、一の宮の御神霊を勧請して、山之上神社と称した。
その後、明治6年2月10日、田宮の祇園牛頭天王(素戔嗚命)を合祀し、同時に両村の頭字を取って、山田神社と改称した。